臨水亭の歴史

臨水亭ものがたり

臨水亭の玄関松江京店の臨水亭は、松江藩の御用商人で藩札の発行元でもある新屋・滝川伝右衛門の灘屋敷を料亭に改造したお店です。

大橋川や宍道湖に沿った大店は、表通りに面した店の後に住居や土蔵が続き、岸辺に面した場所には荷物を上げ下ろしする船着場である「灘」があり、荷物を保管する納屋が立ち並んでいました。よほどの豪商になると趣味の良い庭をつくり灘屋敷と呼ばれる離れ座敷が建てられています。

江戸時代にはこのような座敷が今日の旅館や料亭の機能をはたしており、明治以降も松江の水辺には様々な名店がありましたが、現在でも臨水亭・皆美観・なにわ本店・大橋館などに伝統が受け継がれています。

松江藩の客間

客間

二階大広間

正確な日本地図をつくったことで知られる伊能忠敬は測量のために文化三年(1806年)と文化十年(1813年)に松江へ宿泊しています。

幕府天文方の仕事としての公式の訪問ですから、松江藩は本陣宿として京店で塩問屋をいとなんでいた京屋萬五郎の屋敷を指定します。測量隊が書き記した「山嶋方位記」は全国各地の測量地が数万箇所もありますが、そのひとつに「松江城下詰所・京屋灘座敷より測量」とあります。

伊能忠敬研究会の辻本元博氏は伊能隊が記録した方位をもとに、人工衛星で所在をつかむ測量法を使い、筆者は橋北築の町屋が克明に書かれた明治七年の絵図を検討して共同調査した結果、「京屋灘座敷」は現在のフコク生命ビルの場所であったことが判りました。伊能忠敬はこの場所から三瓶山や大山の方位を測ったのです。

将軍の代替わりごとに旗本から選ばれ、諸藩をめぐって国情を観察する幕府巡検使は、迎える側がいちばん気を使った訪問者です。松江ではどこに宿泊したか史料が未発見なので確定できませんが、伊能忠敬よりも身分が上ですから、いちばん格式の高かった滝川の灘座敷を宿舎に当て、周到な準備をして迎えただろうと考えられます。

また広瀬藩や母里藩など支藩から公式のお使いが見えたときにも、灘座敷で接待したことが記録に残っています。

諸国から旅人や商人は大橋南詰めの八軒屋町で宿泊する決まりでしたが、藩のお客様は北岸の豪商の灘座敷に泊めたことがわかります。

殿様の御成り

鶴の透かし彫りの欄間

鶴の透かし彫りの欄間

「松江八百八町町物語」に「代々の藩主はしばしば滝川家に御成りになった。それは大体正月三日から十一日頃までの間にあるのが慣例となっていた。なかでも天隆公・不昧公・月譚公・斎貴公の四代が最もよく滝川に御成りであった。藩主の御成りとなれば数日前から大騒ぎであった。お城から係りの役人が来て、藩公に差し上げる料理の材料の仕入れから、部屋の選定調度にいたるまでいちいち検分する。

御成りの当日になれば御台所奉行が早朝より出張して藩公に出す料理の味利きをする。そのころ滝川家には「稲塚さんの塩加減で大鍋が一杯」という言葉があった。それはお台所奉行の稲塚利右衛門が台所の上座に坐って、料理人の差し出す料理の味をきいて「これはからい」といえば水をさし、また差し出すと「これはあまい」といえば醤油をいれる。かくして奉行がこれで良いと言う時には、さすがの大鍋も一杯になるからであったという。

御成りには主だった藩士も列席し、お能狂言から始まって藩士や滝川家の人々の隠し芸が出ると席がだんだん崩れて、その日は無礼講となり夕方まで大騒ぎする・・・と紹介してあります。

御成りは臨水の広間

釘隠し

雁の釘隠し

御成りの舞台となった滝川の灘座敷は現在の臨水亭に偲ぶことができます。一階は料亭の機能に改造してありますが、江戸時代の建物に間違いありません。皆美観に隣接した部分の屋根瓦は、一般の瓦の敷き方とは反対の「左瓦」といって、松江藩時代独特の重ね方である屋根が残っていることで証明できます。

文化財審議委員として建物調査のために屋根裏へ入った建築士・足立正智氏によれば「二階の大広間は、小屋組みがトラス構造で洋鉄製の金物が使ってあるので、おそらく明治四十年代以後になって、平屋の上に新たな二階を載せるオカグラという増築法で大改造されらものであり、部材の様式は一階にあった座敷を模した形の可能性がある」との鑑定でした。

約八十畳敷きの座敷の長さの端から端まで杉の柾目の天井板が張ってあり、板の巾に七・五・三の比率で変化がつけてあり、中央部はすこし吊り上げたように高くしてあります。欄間には鶴の舞う姿が透かし彫りになっており、釘隠しにも鶴の姿が使われています。これは新家・滝川伝右衛門が名乗ったもうひとつの別の屋号「鶴屋」にちなんだ意匠と考えられています。

床の間の大きいことは豪壮と言いたいくらいのもので、巾が四間もある巨大なものですが、床の間の下がり壁の裏側はわざと木組みの土壁が見えるようにしてあります。完成させてしまうと職人と施主の縁が切れてしまうのを惜しんで「未完成ですよ」とメッセージを伝える大工さんたちの心意気だとのことです。

木組みの全体からうける感じは質実剛健という言葉が似合います。現代の料亭建築は軽やかで優美な数寄屋風が主流で、材料も銘木を選び抜き、細工も繊細で大工の技工を精一杯みせるのが一般的です。ところがこの座敷は松や栗の通常の材が主で、むろん棚板などしかえるべきところにはケヤキの一枚板などありますが、目に付くところは総じて質素なつくりが感じられます。

松江藩は江戸時代後半に「殖産工業・国産奨励」を合言葉に産業を振興して財政を立て直し、日本有数の富裕藩になりますが、それでもなお「入ると図って出るを制す」という財務方針の下に質素倹約を「国柄」にした政治をおこないます。藩や郡村の財政運営はもとより、領民に対しても「殿合(しまりあい)」という触れを出して衣食住の生活の細部にまで徹底して贅沢を禁じていました。

これにより下郡・与頭などを勤めた在郷の富商農や、大年寄・大目代など城下町の頭役を務める豪商の家でも、たとえ財力はあったとしても、長押にわざと粗末な面皮付きを使うなどして華美にならないように建ててあるのが特徴です。

御用商人である滝川家が率先垂範して建築に関する殿合を守ったカタチが、臨水亭の大広間に継承されているようです。

御成り床

白菊の欄間

白菊の欄間

その大広間の湖水に近い側に御成り床という二畳敷きの上段の間が移設してありました。藩主はその場所に坐って新年会を楽しみ、夏は御殿女中も一緒に花火見物に興じたのだそうです。書院造の御殿などでは殿様の場所は座敷の上座中央にありますが、無礼講の宴会をするような非公式の楽しみの場所でしたから、格式ばった中央部でなく、宍道湖と大橋、その上にかかる出雲富士の姿が一番良く見える湖畔側にしつらえたのでしょう。

臨水亭の先々代はお茶なら不昧流、謡は喜多流のたしなみのあった人で、所蔵の写真は、その大広間でおこなわれた謡の会の様子です。左手に見える一段高い座になっているところが御成り床だったところです。

写真の中央で鼓を打つのは晩年の小泉セツさんとのことなので、曾孫である凡さんに鑑定してもらいました。「もとの菩提寺だった善導寺の墓地整理にともない、養家の稲垣家が檀家であった万寿寺に小泉家のお墓を移転建立したのが大正十三年ですから、その前後ではないかと思います。」との見立てでした。御成床は取り外されて、無くなりましたが柱の下を見れば、その痕跡を確認することができます。

市役所だった瀧川家

二階この場所が松江市役所であったいえば意外に思うかもしれません。「昭和十六年版松江市誌」によれば「市役所の庁舎は、明治二十二年三月二十五日島根県より、市内殿町に設くることに指定あり、六月二十八日殿町勧業展覧場の一部を借用して開設し、其の借受契約は同二十五年三月満期になり、さらに一時末次本町の民舎(瀧川氏)を借り受けて移動した。此れより先き庁舎建設の議あり、同年殿町に敷地買収、同六月八日建築予算を議し、九月九日より工事に着手、同二十六年五月一日竣成」とあります。

殿町の県民会館の付近に市役所庁舎が建つまでのあいだ、明治二十五年から二十六年までの一年はあまり瀧川の屋敷・つまり現在の臨水亭が草創期の市役所であったのです。現代のように机椅子の執務ではなく、おそらく松江藩時代の町役場だった大目代所で働いたように、着物姿でたたみに坐った状態で勤務だったろうと思います。

湖岸のレストラン

臨水亭のお弁当時あたかも文明開化。「松江に洋食を出す店を作ろう」と思い立ち、市役所が移転した跡の瀧川の空き屋敷に目をつけたのは臨水亭の創始者・西尾勝三郎でした。湖岸に面した所を改造してレストランを開設したのです。新屋・瀧川伝右衛門の時代は湖から荷物を出し入れする灘から担ぎあげた米や味噌を保管する納屋だったそうです。

隣にはお茶室がしつらえてあったといいますから、洋食を食べた後で薄茶を頂いたのかもしれません。その部屋を今では「牡丹の間」と名付けて宍道湖を望む眺めの良い客間として使われ、畳敷きの上に椅子テーブルが置かれてあるので、正座が苦手な人でも気軽に料亭料理を楽しめます。

その当時使われていた銀製の食器一式が残されていますが、ナイフ・スプーン・小皿なども叩き出しで一本一本手作りの味わいがあり、とくに貝の形をした網スプーンは細い溝が切り出してあるスプーン細工です。当時お嫁に来たおばあさんは「私の初仕事はランプのホヤと銀食器を磨くことだった」と話し「ヘルンさんが松江に再訪されたときにステーキをだした」と自慢されていたそうです。

オーナーの勝三郎は他の商売もしていたので洋食のコックを雇ったのだろうということですが。肉などの食材はどうして入手したのか、どんなメニューで、どのような人が洋食屋へ足を運んだのか、興味は尽きませんが言い伝えは残っておらず、ただ銀の食器と牡丹の間が往時をものがたるだけです。

料亭に変身

料亭料理御一新で松平家は東京へ出られましたが、明治時代は旧藩主としての様々な仕事の地元拠点として米子町の木実方役所の跡に松平家事務所があり、ご家中だった人たちが流の場所としてたびたびこの家が使われたらしく、松江藩や殿様に関係する御道具などが所蔵されていることからも、松平家と関係の深さがわかります。

当時は貴族院議員であった松平直亮伯爵に「洋食屋よりも、大勢の人が利用できる料亭をするのがよかろう。長男の隆二君が十六歳になったのだから、一流の料亭で板前の修行をしてきなさい」と薦められたのが江戸時代から料亭として名高い「八百善」でした。修行から帰って正式に料亭を開いたのは明治四十一年頃のことです。

のちに松平家から頂いた「臨水亭」という額は、いまも玄関ホールをはいって左側にかけられています。また宍道湖に臨んだ一階の一番良い座敷にかかる「臨水対雲」という額は不昧公の書に小林如泥が彫った名品で、もともと楽山御茶屋にあったものです。戦時中に松江へ三ヶ月ほど疎開された直亮夫人を献身的にお世話したことに対して、松平家から感謝の印として受け取ったという西尾家の宝物です。

戦中戦後・そして今

国宝 松江城

国宝 松江城

大正・明治と料亭はダンサンやオヤカタサンたちの社交の場として華やかに盛業を続けましたが、戦時色が強くなる頃に陸軍将校の社交クラブとして没収同然に召し上げられ、涙を呑んで看板を降ろさざるを得なくなりました。陸軍専用の料亭ですから一般のお客さんをもてなすことは許されず、腕の立つ料理人だった祖父さんは「兵隊の飯宿になりさがった」と悔しがっていたそうです。

家族が寝ているところへ入り込んで軍刀のコジリを突きつけ「おいこら、酒とメシを出せ」と脅すようなことまでされたそうで、みじめな扱いに憤慨した西尾家の人々は自分達の家を出てしまい、一畑電鉄の社長だった山本幸吉さんの別荘(後の婦人館・現市役所別館)に間借りしました。

敗戦で陸軍は消滅しましたが、終戦直後の混乱期に料亭などできるわけもありません。昭和二十七年になって接収されていた建物を取り戻し「料理旅館・臨水亭」の看板をふたたびあげることができました。昔からのお客さんも帰ってこられ、お茶人として知られた祖父の人脈で、流派の垣根を超えて愛好家が集う茶懐石の名店として知られるようになり、現代に続いています。

乾 隆明
(湖都松江より)